【細川たかし 我が道4】小6の秋、人生初の決断「俺は農家を継がない!」

[ 2025年6月4日 07:00 ]

学芸会でクマさん役を演じる(後列右から2人目)
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 のちに「細川かかし」の芸名でテレビにも出演するようになった父の松次郎。音痴としてすっかり有名になりましたが、実は音楽が大好きで、家には蓄音機とレコードがありました。松次郎の父、つまり私の祖父・筆(ふで)松(まつ)は石川・七尾から屯田兵として、約20人の仲間とともにニセコ一帯に開墾に来ました。この筆松が大の歌好きで、尺八も吹ける芸達者だったそう。いわゆる「道楽もん」で、しょっちゅう仲間を家に呼んで宴会ざんまい。細川家は当時から女性が働き者ぞろいの一方、筆松は毎日酒を飲んで、歌って尺八を吹いていたようです。どうも、その祖父に私がそっくりだと親族は言っています。

 そういう環境だったので、小学校に上がる前から、私も蓄音機で三橋美智也さんや村田英雄さんらのレコードを聴いて育ちました。母の話では、小学校に入学した頃、馬車の上で三波春夫さんの「船方さんよ」を歌い、近所の人たちに聴かせていたそうです。当時、真狩の子供が上れる場所で、最も高いのが馬車の上。ステージのつもりだったのでしょう。これも母の記憶ですが、小学校4年生の作文で「将来の夢は歌手になりたい」と書いたそうです。本人は全く覚えていませんが。

 小学校6年生の時、家にテレビが来ました。それまでは近所の家に行って、プロレス中継などを見ていました。そんな秋ごろ、夕飯の後、両親と姉の前で宣言したのです。

 「俺は農家を継がない!」

 人生初めての決断でした。兄は私が小4の頃に家を出て、室蘭で働いていました。姉たちはよく働く貴重な働き手でしたが、いずれ結婚して、家を出ていく身でした。残るは私だけ。やっぱり、畑仕事は体力的にきついし、しんどいばかり。一生の仕事と考えたくなかったのです。両親は黙って聞いていました。そして実際に私が中学に入ると田畑を売り払ってしまい、農業をやめてしまいました。

 真狩中2年生の頃、真狩村の中心部に引っ越しました。それまで片道5キロを自転車やスキーなどで通っていましたが、通学が急激に楽になりました。部活動もテニス部に入り、なんと部長になりました。といっても、ほとんど部員もいない、練習もしない、名ばかりのテニス部です。実は、親に頼んで安いドラムセットを買ってもらい、友達とバンドを組んでザ・ベンチャーズのコピーを演奏していました。修学旅行では青森の十和田湖に行きました。真狩の町から外部に出たのが初めてならば、「おこづかい」も初めてでした。

 実は生まれてからずっと「お金」は必要としませんでした。村に雑貨店がありましたが、素性が分かっているので、全て「つけ」払い。ノートも鉛筆も自分で支払ったことはありません。真狩村の狭いエリアの中だけで生きてきましたが、中学生になると、一気に外部との触れ合いが始まった感じです。同時に、都会に出て歌手になりたい思いが強まってきたのです。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の74歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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