大船渡市民だから納得できる「朗希のメジャー移籍」 故郷の市長が感じた3・11以後の価値観の変化

[ 2025年3月19日 23:29 ]

ナ・リーグ    ドジャース6―3カブス ( 2025年3月19日    東京D )

<カブス・ドジャース>力投する佐々木(撮影・光山 貴大)
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 ドジャースの佐々木朗希投手(23)がカブスとの開幕第2戦でメジャーデビューを果たし、3回を1安打1失点3奪三振で5四球。最速で100.5マイル(約161.7キロ)をマークした。故郷の岩手県大船渡市は2月26日に山林火災が発生し、市面積の9%に当たる約2900ヘクタールが焼失。大船渡高校の野球部OBで佐々木の先輩にあたる渕上清市長(66)は甚大な被害に見舞われた故郷の支援活動をした後輩へ、感謝の言葉とエールを送った。

 佐々木朗希は、故郷の人々の痛みを知っている。3月に吹く海風の強さを知っている。9歳だった11年3月11日、東日本大震災で被災。だから今回の行動は早かった。山林火災の報を聞くと、大船渡市に見舞金1000万円と寝具500セットを寄付。渕上市長は「必要とされる避難所に(寝具を)活用いたしました。迅速な支援をいただきまして感謝したい」と頭を下げた。

 大船渡野球部で投手、外野手としてプレーした渕上市長は佐々木の大先輩にあたるが「格が違いすぎます」と苦笑いする。震災を機に2人の人生が交差した。父と祖父母を亡くした朗希少年は陸前高田市から転居。小学6年時には震災で被災した岩手県内の地区が対象の学童野球「リアスリーグ」でZOZOマリンのマウンドに立った。引率役が当時市議会議員だった渕上氏。「プロ野球のスタジアムでも落ち着いて物怖じしなかった。大器の片りんを感じた」と投げっぷりに目を奪われた。

 大船渡では高校生史上最速の163キロをマーク。渕上氏は母校の名が全国に知れ渡り、鼻が高かった。昨年4月には市長として、ロッテとのスポンサーシップ契約。その際にZOZOマリンで再会。「小っちゃい子が大きくなった。私は(佐々木の)肩くらいまでしかなかった」と言う。

 佐々木はポスティングシステムを利用してドジャースに移籍。契約金や年俸総額が制限され、マイナー契約しか結べない「25歳ルール」の対象で、ロッテは高額の譲渡金を得られなかった。5年間でシーズンを通じて投げた経験もなく、批判的な意見も多かった。ただ、渕上市長は「賛否がありますけれども、自分の人生。自分で決めて進む。あの年で信念を貫けたことが素晴らしい」と言った。

 可愛い後輩だから支持するわけではない。大船渡市民は震災を機に価値観が変わった。市議会議員、そして市長として市民と向き合ってきたからこそ、そう確信している。

 「震災後、自分が目指している方向に進む、思いを形にする方が非常に増えたんです。私たち行政もそれを後押ししたいと思っている」。3・11を経験した人々は知った。明日が来るか、分からない。1年後に生きているか、分からない。愛する人の命は永遠ではないと。だから1歳でも若く海を渡った佐々木の決断が理解できる。

 今も災害対応に追われる渕上市長にデビュー戦を現地で観戦する時間はない。「市民にとって誇りであり、希望の星。われわれは常に支えて、常に応援します」。その言葉は温かく、胸に染みた。

 <記者フリートーク>記者は20年3月まで福岡県福津市で行政職の公務員だった。集中豪雨による水害発生の際には公用車に乗り込み、被害状況を確認したが大船渡市のような被害規模は未体験。三陸町綾里の港地区では家屋が焼け落ち、延焼を逃れた商店も看板が炎による熱でねじれていた。自然の猛威を恐ろしく思った。

 佐々木がメジャー移籍を表明した時、多くの批判があったことを意外に思った。特に球団への貢献や恩返しを求める声に違和感を覚えた。個人的には他人がどう生きようが自由と思っていたが、ファンあっての野球界であるため考えの着地点を見いだせないままでいた。だが、渕上市長が語った価値観の変化が、私の中の「移籍問題」に終止符を打った。いま、この瞬間を全力で生きることこそ、命を落とした人たちに果たせる唯一の責任ではないだろうか。(アマチュア野球担当・柳内 遼平)

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