「3」への愛着とこだわり 伝説の復活にほんの1ミリだけかかわったかもしれない話

[ 2025年6月5日 14:35 ]

2000年2月、巨人の宮崎春季キャンプで、長嶋茂雄監督がグランドコートを脱ぎ、背番号3番を見せる。
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 【君島圭介のスポーツと人間】

 朝、玄関を出ようとしたとき、時計を見て、午前8時2分40秒だとする。

 長嶋茂雄さんは20秒間、扉の前で立ち止まり、3分ちょうどになるのを待って出かけたという。

 現役時代に自ら背負った「3」という数字には強いこだわりと愛着を持っていた。

 監督になって背番号は変わった。1975年からの第1次政権では「90」を。1993年からの第2次政権では「33」を付けた。

 背番号3は巨人の永久欠番だ。公式戦で2度と見ることができないと思っていた。ところが、2000年、グラウンドに伝説が帰って来る。

 しかも私自身がその復活にほんの1ミリでもかかわったかもしれないのだ。

 巨人が3年連続V逸した1999年オフ。広島から本塁打王2回の主砲・江藤智(当時29歳)がFA宣言。獲得に乗り出した長嶋監督は、江藤が広島で付けていた背番号である「33」を譲ることで誠意を見せることを決めた。

 いざ、FA入団交渉の当日の朝、ホテルで、江藤から「僕が背番号いただくなんて…どう思います?」と相談された。ほぼ初対面の私相手に、だ。顔色も悪い。よほど切羽詰まっていたのだろう。

 当時、FAで巨人入りして、打てばいいが、打てなければマスコミを始め“総攻撃”。針のむしろに座らせるとはこういうことか、というほどのバッシングが起きた。まして、長嶋監督の背番号を譲り受けて活躍できなかったら…。

 江藤の気持ちは痛いほど伝わったが、私を始め、長嶋監督の周囲にいた担当記者たちは33番の譲渡が「背番号3」復活の布石であると分かっていた。

 「もし江藤くんが33番をもらったら長嶋監督が3番を着る理由ができる。絶対もらった方がいいよ」

 そう伝えると、重苦しい表情がぱっと明るくなったのを覚えている。

 2000年2月12日、宮崎キャンプ地のサブグラウンドにさっそうと現れた長嶋監督がオレンジのジャンパーを軽快に脱ぎ捨て、待望の「背番号3」を披露。その江藤を相手に激しいノックを始めた。

 江藤は9月24日の中日戦(東京ドーム)で、4点を追う9回に同点満塁弾を放ち、背番号3の胴上げに大きく貢献。シーズン通して長嶋監督の背番号に恥じない大活躍だった。

 それを一番喜んだのは誰あろう長嶋監督だったと思う。

 命日は「3」日。訃報が届いたとき、「享年89」が長嶋さんが人生そのものと語っていた「野球」に見えた。

 主を失った巨人の背番号3は本当に永久欠番となってしまった。(スポーツニッポン専門委員)
 

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