二宮和也 嵐の「お父さん」だった小倉智昭さんとお別れ 「ずっと宝物」5人分の思いを天国に届ける

[ 2025年3月18日 05:10 ]

お別れの会に出席した二宮和也
Photo By 代表撮影

 昨年12月9日に膀胱(ぼうこう)がんのため77歳で亡くなった小倉智昭さんのお別れの会が17日、東京・南青山のブルーノート東京で営まれた。仕事仲間や関係者ら約700人が参列。親友の寺尾聰(77)とフジテレビ「とくダネ!」で共演したデーブ・スペクター(70)が弔辞を読んだ。グループぐるみで25年以上の親交があった嵐の二宮和也(41)は「お父さんのようなというか…もうお父さんでした」と悼んだ。

 ブルーノート東京は小倉さんの行きつけだった名門ジャズクラブ。遺影は23年撮影の、ベースを手にほほ笑みかける一枚。その周辺にはギターやゴルフクラブ、五輪取材時のパスなど多趣味ぶりをうかがわせる品々が並んだ。会場には学生時代に組んでいたバンド「Memory of Future」の音源が流れベースとボーカルを担当した小倉さんの歌声に参列者は耳を傾けた。音楽をこよなく愛した故人らしい会となった。

 そんな中、二宮は遺影をじっと見つめた後、白いカーネーションを献花台に供えた。小倉さんと嵐の交流が始まったのは1999年9月。米ハワイで開かれた嵐のデビュー会見で、小倉さんが生中継によるインタビューを行ったのがきっかけ。その後、日本テレビ「嵐の宿題くん」(06~10年)で共演し親交を深めた。

 献花後に取材に応じた二宮は「バラエティーを一緒にやって、小倉さんの偉大さを実感した。いつ寝てるんだと。若者の我々が“眠い眠い”と言っていたらいけないんだと思った」と懐かしんだ。小倉さんは嵐のコンサートに何度も来ていたといい「嵐のDVDや、メンバーが出ているドラマや映画を時間を割いて見てくれていた」と感謝。その存在を「お父さんのようなというか…もうお父さんでした」と表現し目に涙を浮かべながら「僕らが頼りなかった時は“出てやるよ”と言って番組に出て“こいつはこういうやつなんだ”とプレゼンしてくれた。“こいつのこと頼むね”と番組に僕らのことを根付かせてくれた」と語った。

 5人は小倉さんを「オグさん」と呼んで慕い、互いの誕生日や記念日にプレゼントを贈り合うなどした。祭壇には5人が贈ったシャンパンや一緒に撮った写真も飾られた。一方、故人からプレゼントされた品のひとつが高級腕時計。この日、他の4人は仕事の都合などで参列できなかったが、二宮は「ずっと宝物です」と5人分の思いを天国に届けた。

 最後に会ったのは1年半ほど前の食事会。闘病中も連絡を取り合い「経過は随時聞いていました。(訃報に接した時は)来る時が来てしまったという思いだった。今も、まだ悲しいですけど(天国では)楽しいことをやっていてもらいたい。小倉さんに怒られないよう頑張っていきます」と思いをはせた。

≪多彩な趣味 ギターや西武ユニホームなど展示≫
 会場に飾られた品々は、この日の午前中に小倉さんの自宅からトラックで運び込まれた。5万点を超えると言われるコレクションの中から、計8本のギターやベースのほか、大ファンだった西武の選手のサイン入りユニホーム、レアル・マドリードのユニホーム、五輪の聖火ランナーを務めた際のトーチなどが並んだ。大きな望遠カメラも展示され司会を務めたフリーアナウンサーの笠井信輔(61)は「カメラに関しても詳しい方でお好きな方にはカメラをプレゼントされていました」とエピソードを披露した。
 また、参列者への返礼品は、小倉さんが愛飲していたという自宅近くのコーヒー店のドリップバッグだった。

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