みのもんたさん死去 一時代築いた“反射神経と間” 原点にあったのは――出社実況と水道営業

[ 2025年3月2日 04:00 ]

09年、「おもいッきりイイ!!テレビ」最終回の終了後、大好きなお酒を一気飲みするマネの「エア一気」を披露するみのもんたさん
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 1日に死去したみのもんたさんは、日本一忙しい司会者として活躍し続けた。その原点は社会人1年目で培ったアナウンサーとしての姿勢と、一度現場から離れていたからこその思いがあった。

 みのさんは真骨頂であるアドリブ力で人気司会者へと上り詰めた。出世作は1983年から不定期で放送されたフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」。珍プレー、好プレーの映像に合わせて入れるアテレコは全てアドリブだった。

 79年の文化放送退社後にアナウンスの仕事から離れていたが、偶然フジから「プロ野球ニュース」の仕事依頼があった。雨天時、同番組は大リーグの試合映像を流しており、みのさんは「お~っ、この野郎、ちゃんとバットに当ててくださいよ」や、スタンドにカップルが映ると「そこのアベック、熱いね~」などと、目に入る情報をそのまま伝えていた。これが好評で、日本のプロ野球でも試したところ大ハマり。みのさんアテレコの「珍プレー・好プレー大賞」がすぐに決まった。

 原点は最初に就職した文化放送時代にあった。67年に入社してすぐに、先輩から最寄り駅からオフィスまで「1人実況中継」を命じられ、改札口から目に入ったものを声に出して出社していた。当時、厳しい訓練を受けたことで、しゃべりのプロとしての技術を習得した自負があると後に振り返っている。

 89年に司会に就任した日本テレビ「午後は○○おもいッきりテレビ」では中高年女性も「お嬢さん」と呼びかけるスタイルが反響を呼び、主婦層を中心に人気が爆発。高視聴率を維持し、人気司会者としての地位を確固たるものにした。番組内で健康にいいとして紹介した商品が飛ぶように売れ、全国のスーパーから消える現象も起きたほどだった。

 視聴者受けが良かった背景には、文化放送退社後の10年間、父親の水道メーター製造・販売会社の営業マンとして働いた苦労もあった。テレビ業界に「いつ戻れるのかなあ」と思い、現場を離れていた時間があるからこそ、番組一つ一つを新鮮で大事なものに感じていた。オファーが来るたびに「しゃべり手として認められる」と実感して、どんな仕事も断らずにしゃべり続けた。

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