長嶋茂雄氏死去 89歳 3日午前6時39分に肺炎で 野球を国民的スポーツにした「ミスタープロ野球」

[ 2025年6月3日 08:45 ]

巨人の長嶋茂雄終身名誉監督
Photo By スポニチ

 プロ野球の巨人の三塁手として活躍し、引退後は巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、都内の病院で肺炎のため死去したと読売新聞グループ本社、読売巨人軍などが発表した。89歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は次女・三奈(みな)氏。後日、お別れの会を開くという。

 今年3月15日には巨人とドジャースのプレシーズンゲームが行われた東京ドームを訪問。大谷を激励し、大谷も試合後に自身のインスタグラムを更新し、ツーショットを披露していた。

4月には阪神などで活躍した小山正明さんが亡くなり「コントロールの良さは抜群で天性のものと言われ、村山投手と並んで阪神を代表する名投手でした。淋しい限りです」とコメントを出していた。

 22年9月に自宅で転倒して脳内から出血し、都内病院に入院。慎重に治療を続けながらも、昨年は愛弟子の巨人・阿部監督の激励のため、東京ドームを何度も訪れていた。阿部監督も「球場に来ると元気になる。生きがいなんだなと。うれしい」と感謝していた。

 大谷がメジャー移籍した18年以降も、活躍を楽しみにしており、大谷が帰国した際には食事をともにすることもあった。今年3月にはセコムの新CMで共演していた。

 長嶋さんは1936年(昭和11年)2月20日、千葉県・佐倉市出身。東京六大学野球の通算最多本塁打(当時)記録を引っ提げ、58年に立大から巨人に入団。開幕戦で国鉄・金田正一投手の前に4打席4三振のデビューとなったが、ルーキーイヤーに打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打と打点の2冠に輝き、新人王を獲得。2年目の59年6月には天覧試合で阪神・村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球人気に火を付けた。

 首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度獲得し、65年から73年までの巨人の9年連続日本一に貢献し、「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」と呼ばれ、王貞治一塁手との「ONコンビ」は、野球界の顔として国民的な人気となった。最優秀選手5回、日本シリーズMVPも歴代1位の4回選ばれ、ベストナインは17回選出。入団から引退まで選ばれた唯一の選手だった。74年「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を残し、背番号「3」を永久欠番にして17年の現役生活を終えた。現役時代の通算成績は2186試合出場、2471安打、444本塁打、1522打点で打率3割5厘。

 引退翌年の75年に監督に就任したが、巨人は初の最下位に。翌76年に張本勲外野手らを補強し、リーグ優勝を果たし、77年も優勝。しかし2度とも日本一を逃すと、78年から80年までは優勝できず、80年10月に解任。以後、93年に監督に復帰するまで、五輪取材などで多忙な日々を送った。

 93年に監督に復帰。94年10月8日に同率首位の中日との最終戦を制して優勝。日本シリーズで西武に勝ち、監督して初の日本一に輝いた。2000年にダイエー・王監督との「ON決戦」を制し、2度目の日本一になると01年に勇退。監督としての通算成績は1982試合、1034勝889敗59分、勝率5割3分8厘だった。

 02年にアテネ五輪野球日本代表の監督に就任したが、翌年に脳梗塞で倒れ入院。以後、リハビリを続け、13年に元巨人の松井秀喜氏とともに国民栄誉賞が授与された。

 野球を国民的スポーツへと押し上げた最大の功労者がこの世を去った。

 ▼読売巨人軍・山口寿一オーナー 悲報に接し、言葉が見つかりません。子供のころ、ジャイアンツとは長嶋さんのチームでした。その思いは今も変わりません。「燃える男」の勝負強さと、太陽のような明るさ。高度成長の時代を体現したスーパースターであり、野球界を牽引した「ミスタープロ野球」でした。病に倒れられた後も野球への情熱は衰えることがなく、最後まで東京ドームに来て、監督、コーチ、選手を激励してくださいました。長嶋さんの志は、後輩たちが確実に受け継いでいきます。心よりご冥福をお祈りいたします。

続きを表示

「長嶋茂雄」特集記事

「始球式」特集記事

2025年6月3日のニュース