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W杯8大会連続出場 世界最速決定の裏にあったもの

[ 2025年3月27日 09:30 ]

<W杯アジア最終予選 日本・バーレーン>W杯出場を決め、ウォーターシャワーで森保監督を祝福する日本代表イレブン(撮影・西海健太郎)
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 【大西純一の真相・深層】日本代表が世界で一番早くW杯出場を決めた。8大会連続、予選3試合を残しての日本史上最速での決定。選手も「優勝が目標」と本気で世界一を目指している。森保監督らスタッフの手腕や選手の頑張りが一番だが、ほかにも30年の積み重ねがある。

 あと一歩でW杯の切符を逃した93年10月の「ドーハの悲劇」から約31年、1万1466日。初めてW杯本大会出場の“夢”を実現させた97年11月の「ジョホールバルの歓喜」からは約27年、9986日が過ぎた。「ドーハの悲劇」は、94年W杯米国大会のアジア最終予選最終戦イラク戦で試合終了間際に追いつかれて出場権を逃した。「試合の終わらせ方」が課題として残ったが、オフト監督が力を入れた相手の分析やチャーター機での移動などはこの時から。世界との距離が縮まったと感じられ、サッカー界全体に取り組みの変化があった。

 日本のサッカーは64年東京五輪に向けて西ドイツからクラマーさんを特別コーチとして招へい。1~2カ月の欧州遠征や千葉・検見川での長期合宿などでチームとしても強化したが、ピックアップした日本代表選手を鍛えることが中心だった。

 しかし92年、日本代表監督に初の外国人監督、初のプロ監督としてオフトさんを招へい。同時に92年5月、日本リーグが終わると、プロリーグ(Jリーグ)に切り替わり、監督も選手もプロになって日本のサッカー界全体の底上げが始まった。当時のサッカー協会幹部は、「Jリーグの成功には日本代表の強化とtotoの実現、W杯の招致が必要」と言っていたが、結果的にJリーグと日本代表の相乗効果が大きな成果になった。

 4年後、98年W杯フランス大会へジョホールバルで“夢”を実現させたが、Jリーグが爆発的な人気となってプロ選手が増え、96年にW杯日韓大会の開催が決まり、サッカーがプロ野球と並ぶ人気スポーツになったことが大きい。アジア最終予選が集中開催方式から急きょホーム&アウェーに変更になったが、Jリーグは日程を変えず、1カ月以上も代表選手抜きでリーグ戦を行った。もちろんどのチームも協力した。代表決定プレーオフでは、延長戦でイランを破って初のW杯出場を決めた。Jリーグがリーグ戦で「Vゴール方式」の延長戦とPK戦を採用し、日本の選手がこの戦い方に慣れていたこともあったかもしれない。

 もうひとつ、その頃から日本サッカー協会は、日本代表監督が交代しても、やってきたことを積み上げられるような体制をつくった。その後も世界各国からオシム、ザッケローニ、ハリルホジッチ各氏らが日本を指揮したが、前任者が残した良い部分は、スタッフが変わっても日本の財産として残るような仕組みになったという。さらにトレセン制度や指導者養成の充実で優秀な選手を発掘し、素質を伸ばせるような体制ができたことも大きかった。

 かつてはW杯出場など夢のまた夢だったが、「日本のサッカーを強くしたい」という関係者の思いが、日本を動かした。日本サッカー界全体の勝利。今では「本大会に出て当たり前」となったが、「この先」に注目したい。

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