【内田雅也の追球】「童心」が与える夢 伝説の大下弘と佐藤輝明に共通する姿勢

[ 2021年7月8日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神4-6ヤクルト ( 2021年7月7日    神宮 )

<ヤ・神(14)>4回無死一塁、同点の2点本塁打を放ち、梅野(右)に向かってポーズを決める佐藤輝(撮影・北條 貴史)
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 敗れた阪神のむちゃな走塁憤死や苦しい救援事情や得点圏10打数1安打(ジェリー・サンズ2ラン)と窒息の打線をさておき、佐藤輝明の20号を書いておきたい。

 新人左打者の20本塁打はあの大下弘以来だという。終戦の1945(昭和20)年11月23日、プロ野球復活を告げる東西対抗で東軍の5番として戦後初の本塁打を放った。神宮球場――当時は進駐軍接収中でステートサイドパークと呼ばれた――右翼席への虹をかけた。

 明大から学徒出陣で出征。戦争中断があり、セネタース(現日本ハム)新人として彗星(すいせい)のように現れた。46年4月発行の雑誌『ベースボールマガジン』創刊号の表紙を飾った。同年放った20本塁打は粗悪な材質でボールが飛ばない時代、総本塁打211本の1割弱を占めた。

 4分の3世紀(75年)を経た七夕の夜、大下デビューの神宮、同じ右翼席に20号を放った。伝説の強打者が現代によみがえったのである。

 両者は似ている。大下1年目はダントツの80三振。佐藤輝の目下112三振もダントツだ。

 いや、それよりも大切なのは楽しくプレーする点だろう。

 大下は移籍した西鉄(現西武)時代、よく自宅に子どもたちを招いて遊んだ。毛筆で巻紙に記した日記『球道徒然草』に「童心」と題した一文を残している。

 <「大人になると子供と遊ぶのが馬鹿(ばか)らしくなる」と人は言うかもしれないが、私はそうは思わない><子供の世界に立ち入って、自分も童心にかえり夢の続きを見たい><子供の夢は清く美しい。あえて私は童心の世界にとびこんでゆく>。

 佐藤輝も野球少年のように邪気がない。いくら三振しようが、ひるまずフルスイングする。焦土に列島に夢を与えた大下のように、コロナ禍に苦しむいま、人びとに夢を与えている。いや、自分自身が夢を見ているのかもしれない。

 大下は54年、自身初の優勝に涙をこぼした。日記には<初制覇 若獅子の眼に溢(あふ)るもの>の一句がある。本塁打王や首位打者の感激と比べれば<月の前の星のようなもの>で<選手にとって最大にして唯一の目的は自分のチームの優勝ということにある>。

 この夜、佐藤輝は本塁打以外の打席、5回表の2死満塁を含め3三振だった。開幕から主軸を任され続けて77試合。もちろん新人として十分にやっている。ただ、勝ってこその本物の夢だと、もう分かっている。 =敬称略= (編集委員)

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